こんにちは。今回のブログでは、大谷翔平選手と山本由伸選手が加入したロサンゼルス・ドジャースについて、日本人メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄選手の通訳を務めた奥村政之氏(現・ヤクルト編成部参事、国際グループ担当部長)にインタビュー内容をお届けします。
奥村氏は、野茂選手のメジャー挑戦の裏側や、ドジャースのチームカラー、大谷選手と山本選手の活躍の秘訣などについて語ってくれました。
野球ファンなら必見の内容ですので、ぜひ最後までご覧ください。
野茂選手のメジャー挑戦は「歴史的な出来事」だった
奥村氏は、野茂選手の通訳として、メジャー初年度の1995年から97年の3年間を共に過ごしました。
その間に、野茂選手は「NOMOフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こし、日本人選手のメジャーリーグ進出の道を開きました。
奥村氏は、野茂選手のメジャー挑戦を「歴史的な出来事」と評価しています。
「野茂さんは、日本の野球界でトップレベルの選手でしたが、自分の夢を追いかけるために、当時はまだ整備されていなかったポスティングシステムを利用して、メジャーリーグに挑戦しました。それは、日本の野球界にとっても、メジャーリーグにとっても、衝撃的なことでした。野茂さんは、メジャーリーグのレベルにも負けず劣らずのパフォーマンスを見せて、日本人選手の可能性を広げてくれました。私は、そんな野茂さんのサポートをすることができて、とても光栄に思っています」
野茂選手の凄みは「妥協しない真摯な姿勢」と「集中力の高さ」
奥村氏が3シーズンを共にして感じた野茂選手の凄みは、いかなる時も気を抜かず妥協しない真摯な姿勢と、その集中力の高さだといいます。
例えば、メジャー3年目の97年8月28日、この年から導入されたインターリーグ(交流試合)のオークランド・アスレチックス戦でのことは忘れられないといいます。
当時のアスレチックスは黄金期の選手がごっそりと抜け低迷期にあった。
試合の1カ月前の7月末には強打者のマーク・マグワイアも放出しており、ドジャースにとっては楽勝のカードに思えたといいます。
「アメリカン・リーグの打者はフォークボールにも慣れていないし、私も軽口のつもりで『ガンガン三振を取るチャンスですよ』なんてことを言ったんです。そうしたら野茂さんは『思い通りに行っているように見えるかもしれないけど、メジャーはそんなに甘くないんです。どんなチーム相手にも絶対に気を抜いたらダメ。それを毎日痛感しながらやっています』と言っていました。中4日で投げ続けて、気候の変化や移動も大変そうでしたが、野茂さんが手を抜くようなところは一度も見なかったです」
この試合、ドジャースは7-1と完勝しました。野茂選手は8回途中まで投げて被安打4の1失点。
三振を9つ奪い、デビューから3年連続となるシーズン200奪三振に到達しました。
試合後はいつものポーカーフェイスに戻り、
「三振の数は全く気にしていない」
と振り返りました。浮かれることなく淡々と、次の登板に向けた入念な準備をしていたといいます。
通訳は試合中のベンチ入りを許可されなかった
奥村氏は、野茂選手の通訳として、メジャーリーグの球団職員となった最初の日本人でした。
今でこそ日本人選手に通訳やトレーナーが付くのは当たり前ですが、当時は異色の存在でした。
野茂選手に先駆けてドジャースで活躍していた朴贊浩(チャンホ)も韓国語の通訳はチームに帯同しておらず、英語が話せない中南米の選手は、困ったら地元局のスペイン語が話せるアナウンサーをグラウンドに呼んで対処していたのだといいます。
当時はメディア側とギクシャクした部分もありました。
奥村氏は、野茂選手が野球に集中できることを優先に殺到する取材をキャンセルすることもあったのですが、よよく吊し上げられましたよ(笑)。
今、大谷選手の水原(一平)通訳はメディアとの関係をすごく上手くやっていますが、当時はギクシャクした部分もありました。
ラソーダ監督
「いいことを思いついたぞ」
当時、通訳は試合中のベンチ入りを許可されなかった。
奥村氏は野茂選手の登板日にはロッカールームに待機して、ベンチへ続くドアから時折顔を覗かせて状況を把握していたのだという。
当然、投手コーチとのやりとりなどでは不都合もある。チームでは、ユーモアたっぷりの“奇策”を講じたこともあった。
「ラソーダ監督が突然『いいことを思いついたぞ。今からバットボーイのユニフォームを着ろ。お前は今日から英語と日本語を喋るバットボーイだ! 』って言い出したんです。実際に野茂選手が登板する公式戦でドジャースのバットボーイの制服を着てベンチの横に待機したことがありました。審判に気づかれないようにずっと下を向いて、バット引きをしてはダッシュで戻る。こっそりと野茂選手のサポートもして……(笑)。3、4試合くらいでしたかね。最後はメディアに気づかれて書かれてしまって、その後は出来なくなりました」
ファミリー色が強かった1990年代のドジャース
野茂選手がメジャーリーガーとして一歩を踏み出したドジャースにはその後、石井一久や斎藤隆、前田健太、ダルビッシュ有ら多くの日本人選手が所属。
今季からは大谷選手や山本選手もユニフォームに袖を通し、再び注目度が高まっている。
球団職員として3年間所属した奥村氏から見て、そのチームカラーや伝統的な球団の気質はどのようなものなのだろうか。
「当時はオマリー会長のファミリー経営だったので、選手や選手の家族、職員に対して温かく“ファミリー色”が強かった。一方で現場の選手たちは仲が良くても勝負への厳しさをきっちり持っていました。試合後に、あのプレーはおかしくないか? というような怒鳴り合いはしょっちゅうあったし、シャワールームで取っ組み合いが起きていたことも。チーム経営に大きな資本が入り、変わってきているでしょうけど、絆を大切にするというカラーや勝負への厳しさという気質は今も残っていると思います」
「コントロール養成マシン」も
ロサンゼルスという土地柄もあり、新しいことをどんどん取り入れる進取の気性も特徴だ。
奥村氏の在籍時には、一般にパソコンが普及する前だったにも関わらず、早々にITを駆使し、最新の機材を導入していたという。
「ドジャースには95年当時から映像をベースにした最新のデータシステムがありました。スカウトも自分でプログラミングしたソフトを作っていて、驚いたことを記憶しています。チームには『コントロール養成マシン』もありました。パソコンを使って一点に向かう集中度を高めるゲームのようなものですが、視覚の集中力が高まってコントロールが良くなるということで選手は全員、毎日それをやらなければいけなかった。当時でそんな状況でしたから、今ではさらに凄いシステムや最新の機械が導入されていると思いますよ」
エンゼルスとドジャースの違い
大谷選手はエンゼルスからドジャースへの移籍となった。同じロサンゼルスを本拠地とするチームでも、ファンの気質は大きく異なるという。
「エンゼルスのファンは一言で言えばお上品なんです。地理的にもアナハイムから下の方はサンディエゴまで高級住宅エリアが続いていく。一方でダウンタウンのてっぺんにあるドジャースは熱狂的で、ノリが良くて“ガヤ”が凄いという印象があります。ロサンゼルスはヒスパニック系が多くてみんな地元のドジャースが大好き。彼らはファミリーも子供も多いので、大人数で球場に来てワイワイと野球を観て楽しむ印象があります。日本の野球の知識も深いので野茂さんもすごく愛されていましたし、その後ドジャースでプレーした日本人選手も応援されてきた。大谷選手や山本選手の加入は、おそらく日本人以上に喜んでいると思います」
夏場のナイターはボールが飛ばないという印象
奥村氏は現在、ヤクルトの国際担当グループのトップとして、外国人選手の獲得に関わっている。
メジャーリーグとも太いパイプを持つ立場から、大谷選手や山本選手の活躍の秘訣についても語ってくれました。
「大谷選手は、投手としても打者としても、メジャーリーグのトップレベルの選手です。彼の才能は世界でも類を見ないものです。山本選手も、日本ではあまり注目されていなかったかもしれませんが、メジャーリーグでは高い評価を得ています。彼の球威やコントロールは、メジャーリーグの打者にとっても厄介するということです。ドジャースの本拠地であるドジャー・スタジアムは、高地にあって空気が薄く、ボールが飛びやすいという特徴があります。しかし、夏場のナイターはボールが飛ばないという印象があります。それは、海からの冷たい風が吹いて、空気が重くなるからだと思います。そのため、投手にとっては有利な条件になります。大谷選手や山本選手は、そのような環境にも適応して、素晴らしいピッチングを見せてくれるでしょう」
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ドジャースNOMOフィーバーまとめ
以上が、奥村氏にインタビューした内容です。
奥村氏は、野茂選手のメジャー挑戦の裏側や、ドジャースのチームカラー、大谷選手と山本選手の活躍の秘訣などについて語ってくれました。
野茂選手は、日本人メジャーリーガーのパイオニアとして、歴史的な功績を残しました。
大谷選手と山本選手は、野茂選手の後を継いで、ドジャースで輝くことでしょう。
私は、彼らの活躍を応援しています。
最後までご覧いただきありがとうございました!
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