こんにちは。今回は、ドジャースの永久欠番についてご紹介します。
永久欠番とは、そのチームで多大な功績を残した選手や監督の背番号を、その人物の栄誉と栄光の歴史を末永く称えるために、チーム内で欠番として本人しか利用できないようにしたものです。
ドジャースの永久欠番は、現在12個あります。
それぞれの永久欠番には、ドジャースの歴史において重要な役割を果たした人物が関わっています。
この記事では、ドジャースの永久欠番の意味と歴史を、それぞれの背番号とともに紹介していきます。
ドジャースの永久欠番
1番:ピー・ウィー・リース(遊撃手)
ピー・ウィー・リースは、1940年から1958年までドジャースでプレーした遊撃手です。
彼は、10回のオールスター出場、3回のワールドシリーズ優勝、2回のゴールドグラブ賞受賞などの実績を残しました。
また、チームのキャプテンとして、ドジャースの黄金時代を支えました。
特に、1947年にジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグで初めて黒人選手としてデビューしたとき、彼はロビンソンを温かく迎え入れ、差別や偏見に対して立ち向かいました。
彼の背番号1は、1984年にドジャースの永久欠番となりました。
2番:トミー・ラソーダ(監督)
トミー・ラソーダは、1976年から1996年までドジャースの監督を務めた人物です。
彼は、ドジャースの監督として最も長く在任した人物であり、通算1599勝1439敗の成績を残しました。
彼の指揮の下、ドジャースは8回の地区優勝、4回のリーグ優勝、2回のワールドシリーズ優勝を果たしました。
彼は、1983年と1988年には最優秀監督賞を受賞しました。
また、1997年には野球殿堂入りを果たしました。
彼の背番号2は、1997年にドジャースの永久欠番となりました。
4番:デューク・スナイダー(外野手)
デューク・スナイダーは、1947年から1962年までドジャースでプレーした外野手です。
彼は、8回のオールスター出場、6回のワールドシリーズ出場、2回のワールドシリーズ優勝、2回の本塁打王、1回の打点王などの実績を残しました。
また、1950年代には、ヤンキースのミッキー・マントル、ジャイアンツのウィリー・メイズとともに、ニューヨークの三大センターと呼ばれました。
彼は、1955年にドジャースが初めてワールドシリーズを制覇したときに、4本塁打を放ちました。
彼の背番号4は、1980年にドジャースの永久欠番となりました。
14番:ギル・ホッジス(一塁手)
ギル・ホッジスは、1943年から1957年までドジャースでプレーした一塁手です。
彼は、8回のオールスター出場、7回のワールドシリーズ出場、2回のワールドシリーズ優勝、3回のゴールドグラブ賞受賞などの実績を残しました。
また、1954年には40本塁打130打点を記録し、最有力のMVP候補となりました。
彼は、1955年にドジャースが初めてワールドシリーズを制覇したときに、第7戦で決勝打を放ちました。
彼の背番号14は、2022年にドジャースの永久欠番となりました。
19番:ジム・ギリアム(内野手)
ジム・ギリアムは、1953年から1966年までドジャースでプレーした内野手です。
彼は、4回のオールスター出場、8回のワールドシリーズ出場、4回のワールドシリーズ優勝などの実績を残しました。
また、1953年には新人王に選ばれました。彼は、ドジャースの移転後もチームに残り、1965年には最年長でワールドシリーズを制覇しました。
彼は、1966年に現役を引退し、コーチに就任しましたが、1978年に心臓発作で急逝しました。
彼の背番号19は、1978年にドジャースの永久欠番となりました 。
20番:ドン・サットン(投手)
ドン・サットンは、1966年から1980年までドジャースでプレーした投手です。
彼は、4回のオールスター出場、5回のワールドシリーズ出場、1回のワールドシリーズ優勝、1回の最多勝利、1回の最多奪三振などの実績を残しました。
また、彼は、ドジャースの歴代最多の233勝と3142奪三振を記録しました。
彼は、1986年にアストロズで300勝を達成し、1998年には野球殿堂入りを果たしました。
彼の背番号20は、1998年にドジャースの永久欠番となりました 。
24番:ウォルター・オルストン(監督)
ウォルター・オルストンは、1954年から1976年までドジャースの監督を務めた人物です。
彼は、ドジャースの監督として2番目に長く在任した人物であり、通算2040勝1613敗の成績を残しました。
彼の指揮の下、ドジャースは13回の地区優勝、7回のリーグ優勝、4回のワールドシリーズ優勝を果たしました。
彼は、1955年、1959年、1963年、1965年には最優秀監督賞を受賞しました。
また、1983年には野球殿堂入りを果たしました。彼の背番号24は、1977年にドジャースの永久欠番となりました 。
32番:サンディ・コーファックス(投手)
サンディ・コーファックスは、1955年から1966年までドジャースでプレーした投手です。
彼は、7回のオールスター出場、4回のワールドシリーズ出場、3回のワールドシリーズ優勝、4回の最優秀防御率、3回の最多奪三振、3回のサイ・ヤング賞、1回のMVPなどの実績を残しました。
また、彼は、1963年と1965年にはノーヒットノーランを達成し、1965年には完全試合を達成しました。
彼は、1966年に腕の故障で現役を引退しましたが、1972年には野球殿堂入りを果たしました。
彼の背番号32は、1972年にドジャースの永久欠番となりました 。
34番:フェルナンド・バレンズエラ(投手)
フェルナンド・バレンズエラは、1980年から1990年までドジャースでプレーした投手です。
彼は、6回のオールスター出場、3回のワールドシリーズ出場、2回のワールドシリーズ優勝、1回の最多勝利、1回の最多奪三振、1回のサイ・ヤング賞、1回の新人王などの実績を残しました。
また、彼は、1981年にはノーヒットノーランを達成しました。
彼は、メキシコ出身の選手として初めてメジャーリーグで成功し、多くのラテン系のファンを獲得しました。
彼の背番号34は、2019年にドジャースの永久欠番となりました 。
39番:ロイ・キャンパネラ(捕手)
ロイ・キャンパネラは、1948年から1957年までドジャースでプレーした捕手です。
彼は、8回のオールスター出場、5回のワールドシリーズ出場、1回のワールドシリーズ優勝、3回のMVPなどの実績を残しました。
また、彼は、1953年には41本塁打142打点を記録し、捕手としてのシーズン最多本塁打と打点の記録を樹立しました。
彼は、ジャッキー・ロビンソンに次いでメジャーリーグで2番目に黒人選手としてデビューした人物であり、黒人選手の先駆者の一人です。
彼は、1958年に自動車事故で重傷を負い、現役を引退しましたが、1969年には野球殿堂入りを果たしました。
彼の背番号39は、1972年にドジャースの永久欠番となりました 。
42番:ジャッキー・ロビンソン(内野手)
ジャッキー・ロビンソンは、1947年から1956年までドジャースでプレーした内野手です。
彼は、6回のオールスター出場、6回のワールドシリーズ出場、1回のワールドシリーズ優勝、1回のMVP、1回の新人王などの実績を残しました。
また、彼は、1947年にメジャーリーグベースボールで初めて黒人選手としてデビューした人物であり、その後の黒人選手の道を切り開いた偉大な先駆者です。
彼は、1956年に現役を引退し、1962年には野球殿堂入りを果たしました。
彼の背番号42は、1972年にドジャースの永久欠番となりましたが、1997年にはメジャーリーグ全球団で永久欠番に制定されました 。
53番:ドン・ドライスデール(投手)
ドン・ドライスデールは、1956年から1969年までドジャースでプレーした投手です。
彼は、8回のオールスター出場、5回のワールドシリーズ出場、3回のワールドシリーズ優勝、1回のサイ・ヤング賞、1回の最多奪三振などの実績を残しました。
また、彼は、1968年には58イニング連続無失点のメジャーリーグ記録を樹立しました。
彼は、1969年に現役を引退し、1984年には野球殿堂入りを果たしました。
彼の背番号53は、1984年にドジャースの永久欠番となりました 。
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ドジャース永久欠番まとめ
以上が、ドジャースの永久欠番についての記事となります。
ドジャースの永久欠番は、ドジャースの歴史において重要な役割を果たした人物が関わっています。
彼らの功績と栄光は、ドジャースのファンにとって永遠の誇りです。
この記事が、ドジャースの永久欠番の意味と歴史を知るきっかけになれば幸いです。
最後までご覧いただきありがとうございました!
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