こんにちは。今回は、大谷翔平と山本由伸が加入したドジャースの歴史について、知られざるエピソードを紹介したいと思います。
ドジャースは、19世紀後半に誕生した伝統ある球団です。
その歴史は、数々の名選手や名監督、名場面を生み出してきました。
しかし、その一方で、ドジャースには、一般にはあまり知られていない秘史もあります。
今回は、そんなドジャースの秘史を9つピックアップして、詳しく解説していきます。
ドジャースファンはもちろん、野球ファンや歴史ファンにも楽しんでいただけると思います。
それでは、早速見ていきましょう。
ドジャース秘史1 <チーム名の由来はトロリーバス>
ドジャースというチーム名は、どのようにしてつけられたのでしょうか。
実は、この名前には『dodge(ドッジ/よける)人たち』という意味があります。
これは、ブルックリン地区で走っていた路面電車(トロリーバス)をうまくよける住民たちに由来しているとされています。
ドジャースは、1883年にブルックリンに誕生しましたが、当時のチーム名はアトランティックスでした。
その後、グレイズ、グルームズ、ブライドグルームズ、スーパーバス、ロビンスなどと名前を変えてきました。
ドジャースという名前は、1911年にニューヨーク・プレス紙のスポーツ記者が使ったのが最初といわれています。
1920年に正式にドジャースとなりましたが、その後もブルックリン・ロビンスやブルックリン・ロイヤルズと呼ばれることもありました。
1958年にロサンゼルスに移転してからは、ロサンゼルス・ドジャースとなりました。
現在でも、ドジャースはブルックリンの愛称として親しまれています。
ドジャース秘史2 < “野球の神様” が客寄せパンダに>
ヤンキースやレッドソックスで活躍したベーブ・ルースは、野球史上最高の選手として知られていますが、じつはドジャースにも在籍していたことがあります。
しかも、その役割は、選手ではなく、客寄せパンダでした。
ルースは、1935年にボストン・ブレーブスで引退しましたが、その3年後の1938年、ドジャースの一塁コーチとして契約しました。
本人は監督を希望していましたが、チームは興行面を優先し、客寄せパンダとしてグラウンドに立たせたかったのです。
ルースは、試合前にホームランを打ったり、ファンにサインをしたりして、人気を博しましたが、監督の権限はほとんど与えられませんでした。
不満を持ったルースは、1年でチームを去りました。
その後、ドジャースの監督になったのは、ルースの後任の一塁コーチだったレオ・ドローチャーでした。
ドジャース秘史3 <大谷もびっくり! 三刀流の選手がいた>
大谷翔平は、投手と打者の二刀流として世界を驚かせていますが、ドジャースには、三刀流の選手がいたことがあります。
その選手は、チャック・コナーズという人物で、野球のほかにもバスケットボールと俳優という3つの分野で活躍しました。
コナーズは、1946年に現NBAのセルティックスと契約しましたが、その3年後にドジャースとも契約しました。
ところが野球の実力はそれほどでもなく、翌年にトレードに出され、マイナー落ちしました。
そんな不遇時代に、端整な容姿から映画界にスカウトされ、俳優として成功したのです。
コナーズは、テレビ西部劇の『ライフルマン』で主演し、日本でも人気者となりました。
その後も、映画やテレビで多くの作品に出演しました。
野球選手としては、メジャーで66試合に出場し、打率.238、2本塁打、18打点を記録しました。
ドジャース秘史4 <歴史と伝統を重視し、球団マスコットは不在>
メジャー球団ではマスコットを採用するケースが多いですが、ドジャースにはいません。
これは、歴史と伝統を重んじるためです。
そこには『流行には左右されない』という誇りがあります。
ちなみにヤンキースにも、マスコットは不在です。
ドジャースは、1955年にブルックリンで初めてワールドシリーズを制覇しましたが、その時のチームは『ボーイズ・オブ・サマー』と呼ばれ、多くのファンに愛されました。
そのメンバーの中には、ジャッキー・ロビンソンやロイ・キャンパネラなど、人種差別に苦しんだ黒人選手もいました。
彼らは、野球だけでなく、社会にも影響を与えました。
ドジャースは、1962年にドジャー・スタジアムを完成させました。
この球場は、現在でもメジャーで最大の収容人数を誇ります。
また、ドジャースは、1977年から1980年にかけて、4年連続でワールドシリーズに進出しましたが、いずれも敗れました。
その相手は、いずれもヤンキースでした。
ドジャースは、1981年と1988年にワールドシリーズを制覇しましたが、その後は長い低迷期に入りました。
しかし、2020年には、32年ぶりにワールドシリーズを制覇しました。
その年のチームは、コロナ禍の中で戦い、多くの困難を乗り越えました。
ドジャースは、これまでに7回のワールドシリーズ制覇を果たしていますが、その度に時代の変化に対応してきました。
しかし、その一方で、歴史と伝統を守り続けてきました。
ドジャースは、マスコットなどの飾り気は必要ないと考えています。
ドジャースの魅力は、野球そのものにあるのです。
ドジャース秘史5 <兜のお披露目は昨季が最後だった!?>
本塁打を打った選手を、ベンチにいる選手が盛り上げるホームランセレブレーション。
エンゼルスでは日本製の兜をかぶり、話題になりました。
しかし、ドジャースでは、マスコットと同様、伝統と相手投手へのリスペクトの意味もあり、おこなっていません。
ただ、ファンは他球団をうらやましがっており、大谷加入でどう変わるのか楽しみとなっていました。
ドジャースは、2019年にホームランセレブレーションを導入しましたが、それは兜ではなく、青いバケツでした。
これは、ホームランを打った選手の頭に水をかけるというものでした。
しかし、これはあまり盛り上がらず、2020年には廃止されました。
ドジャースのホームランセレブレーションは、昨季が最後だったかもしれませんでした。
なぜなら、ドジャースは、2020年からホームランセレブレーションを一時禁止すると発表したからです。
これは、コロナ感染防止のための措置で、選手同士の接触を減らすことを目的としていました。
しかし、ドジャースのファンは、ホームランセレブレーションを見たいと思っていました。
特に、大谷翔平がホームランを打ったときは、日本の兜をかぶって欲しいという声が多くありました。
そして、2024年コロナが収束した現在、ホームランセレブレーションとして新しくひまわりの種を顔にかけるホームランセレブレーションが流行りつつある状況となっています。
ドジャース秘史6 <球団史を語るうえで外せない日本人がいる>
ドジャースは、日本人選手との縁が深い球団です。
野茂英雄や石井一久、ダルビッシュ有、前田健太など、多くの日本人選手がドジャースでプレーしました。
しかし、ドジャースの球団史を語るうえで外せない日本人がいることをご存知でしょうか。
その人物は、アイク生原(生原昭宏)という人物です。
生原は、早稲田大学野球部で活躍した後、1965年に単身渡米し、ドジャース傘下のマイナーリーグで靴磨きなど用具係を務めました。
その献身ぶりを受けて、当時のオマリー会長が特別補佐に指名しました。
生原は、日米交流に多大な貢献をしたほか、ソ連(当時)や中国などへの野球の普及活動に奮闘しました。
生原の功績は、オマリー会長が『彼こそが国際親善大使だ』と、最大級の賛辞を贈ったほどです。
生原は、ドジャースの名誉職員として、現在でも球団に関わっています。
生原は、ドジャースの日本人選手のサポートも行っており、特に野茂とは親交が深いといわれています。
生原は、ドジャースの歴史において、重要な役割を果たした日本人です。
彼は、ドジャースの日本人選手の先駆者であり、後継者でもあります。
彼は、ドジャースの歴史を語るうえで、決して忘れてはならない人物です。
ドジャース秘史7 <MLBでただ一球団、専用機を持っていた>
現在、MLBの30球団は、すべてチャーター機で長距離移動していますが、ドジャースは一時期、唯一専用機を持っていたことがあります。
これは、オマリー会長が『利益は選手に還元しよう』と決めたためです。
ドジャースは、1979年にボーイング727型の専用機を購入しました。
この機は、座席はすべてファーストクラス仕様で、選手は体を休めることができました。
また、機内にはビデオプレーヤーやゲーム機などの娯楽設備もありました。
ドジャースは、この機で全米を飛び回り、他の球団から羨ましがられました。
しかし、専用機にはメリットだけではありませんでした。
燃料費や整備費などのコストがかかりましたし、空港のスペースやスケジュールの確保も難しくなりました。
また、選手たちは、専用機に乗ることで、他の人との交流や刺激が減ったと感じるようになりました。
ドジャースは、1984年に専用機を手放しました。
その後、ドジャースは、チャーター機を利用するようになりました。
ドジャースの専用機は、MLBでただ一球団の試みでした。
これは、オマリー会長の選手への思いやりと、ドジャースの先進性を示すものでした。
しかし、時代の変化に合わせて、ドジャースは専用機をやめる決断をしました。
ドジャースは、常に最善の方法を探して、選手のパフォーマンスを高めることを目指しています。
ドジャース秘史8 <「俺の体には青い血が」顔を殴られた名将は……>
1976年から20年の長きにわたってドジャースの指揮を執ったトミー・ラソーダは、ドジャースの象徴的な存在でした。
彼は、ドジャースのチームカラーにちなんで『俺の体には青い血が流れている』という名言を残しました。
しかし、そんなラソーダも、一度だけ顔面を殴られたことがあります。
その相手は、ドジャースの元コーチでした。
ラソーダが顔面を殴られたのは、1980年のことでした。
その年のシーズンオフに、ラソーダは、前年に解雇されたジム・ラフィーバー元コーチとテレビ局で遭遇しました。
ラフィーバーは、ラソーダに対して、解雇の理由や裏切りなどの非難を浴びせました。
ラソーダは、冷静に応対しようとしましたが、ラフィーバーは激昂し、ラソーダの顔面を殴りました。
ラソーダは、鼻血を流しながらも、ラフィーバーに反撃しようとしませんでした。
彼は、ドジャースの監督としての品格を守ろうとしたのです。
ラソーダは、後にこの事件について、『あのときは、青い血ではなく、赤い血が流れた』と冗談めかして語りました。
ラソーダは、ドジャースの監督として、2度のワールドシリーズ制覇を含む8度の地区優勝を果たしました。
彼は、ドジャースの歴史において、最も成功した監督の一人です。
彼は、ドジャースのために、自分の顔を犠牲にしたこともありました。
彼は、ドジャースのために、青い血を流したこともありました。
ドジャース秘史9 < “ノモ・マニア” に続き “オオタニ・マニア” が!?>
ドジャースは、日本人選手のブレイクの舞台となった球団でもあります。
1981年にフェルナンド・バレンズエラ投手が開幕戦から8連勝し、しっかりとロスっ子の心を掴んだことがあります。
彼はその年、史上初めて新人王とサイ・ヤング賞のダブル受賞に輝きました。
熱狂的なファンがつき、彼らは “フェルナンド・マニア” と呼ばれました。
1995年には、野茂英雄がトルネード投法でメジャーを席巻し、 “ノモ・マニア” が誕生しました。
野茂は、ドジャースで2度のノーヒットノーランを達成し、サイ・ヤング賞を受賞しました。
野茂は、日本人選手のメジャー挑戦の先駆者として、歴史に名を残しました。
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ドジャース球団歴史まとめ
大谷翔平と山本由伸がドジャースに加入しました。大谷は、投手と打者の二刀流として、世界を驚かせています。
山本は、日本で最強のストレートを投げると言われる若手のエースです。
2人がドジャースでどのような活躍を見せるのか、期待が高まります。
ドジャースは、日本人選手にとって、夢の舞台です。
ドジャースは、日本人選手にとって、チャレンジの場です。
ドジャースは、日本人選手にとって、歴史を作る機会です。
2人が球団の歴史に名を連ねるシーズンは、まもなく開幕します。
最後までご覧いただきありがとうございました!
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