【伝説】ドジャース戦法とは?巨人V9の秘密を徹底解説!

ドジャース戦法という言葉を聞いたことがありますか?

これは、かつてアメリカのプロ野球チームであるブルックリン・ドジャースが用いた画期的な戦術です。

この戦術は、日本のプロ野球界にも大きな影響を与えました。

なんと、巨人のV9時代の礎となったのです。

この記事では、ドジャース戦法とは何か、どのようにして巨人に導入されたのか、そしてその効果はどのように現れたのかについて解説します。

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目次

ドジャース戦法とは何か

引用元:Yahoo!ニュース

ドジャース戦法とは、貧打のチームでありながら、守備を最大限に活かして守り勝つ野球で、ナショナルリーグの覇権を争っていたブルックリン・ドジャースが駆使する当時の最新の野球戦術でした。

攻撃と守備の両面でチームプレーを重視し、相手の弱点を突く戦法でした。

攻撃では、犠打やヒットエンドランを用いて得点を取りました。

例えば、1955年のワールドシリーズ第4戦では、ドジャースは8回裏に1点ビハインドで迎えた攻撃で、先頭打者のジム・ギリアムが四球で出塁し、次打者のピーブ・リースがヒットエンドランを成功させて一塁と三塁に走者を置きました。

その後、デューク・スナイダーの犠飛で同点にし、ロイ・キャンパネラのタイムリーで逆転しました。

このように、ドジャースは小技で相手の隙をついて得点を重ねました。

守備では、失点を防ぐためにバント対策でシフトを敷く際に外野手もカバーに走るというようなチームプレーが戦法の骨子となりました。

例えば、1955年のワールドシリーズ第7戦では、ドジャースは9回表に2点リードで迎えた守備で、先頭打者のジル・ホッジスがバントを試みました。

ドジャースは三塁手のジャッキー・ロビンソンが内野に詰めてカバーし、左翼手のサンディ・アモロスが三塁線に駆け寄ってホッジスの打球を捕球しました。

そのままアモロスは一塁に送球し、一塁手のギル・ホッジスがタッチアウトを取りました。

このように、ドジャースは守備の連携で相手の攻撃を封じました。

投手や守備に関する記述が最初の半分以上を占めているのが特徴でした。

ドジャースは、打撃力に劣ることを自覚していたので、投手力と守備力で勝負することを選択しました。 

ドジャースのエースであるドン・ニューカムは、1956年にサイ・ヤング賞とMVPの二冠に輝きました。

また、ドジャースの捕手であるロイ・キャンパネラは、1951年、1953年、1955年の3回MVPに選ばれました。

このように、ドジャースは、投手と捕手を中心とした堅実な守備で、相手の得点を抑えることに成功しました。

ドジャース戦法が生まれた背景

ドジャース戦法が生まれたのは、1940年代後半から1950年代前半のことでした。

この時代は、アメリカのプロ野球界において、ニューヨーク・ヤンキースが圧倒的な強さを誇っていました。

ヤンキースは、ジョー・ディマジオやミッキー・マントルなどの強打者を擁し、打撃力が抜群でした。

また、ヤンキースは、財政力も豊富で、他のチームから優秀な選手を引き抜くこともできました。

一方、ドジャースは、戦力的に不利でした。

ドジャースは、ブルックリンという労働者階級の街に本拠地を置いていたので、財政力も低く、ヤンキースとは選手の質や量で劣っていました。

また、ドジャースは、1947年にジャッキー・ロビンソンを初めとして、黒人選手を積極的に採用しました。

これは、人種差別の激しかった当時の社会において、画期的なことでしたが、同時に、他のチームやファンからの反感や嫌がらせを受けることもありました。

そこで、ドジャースは、他のチームとの差別化を図る必要がありました。

ドジャースは、打撃力に頼らず、投手力と守備力で勝負することを決めました。

また、ドジャースは、アル・キャンパニスという野球理論家を招聘しました。

キャンパニスは、ドジャースの戦力を分析し、それに合った戦術をまとめました。それが、ドジャース戦法でした。

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ドジャース戦法が日本に伝わった経緯

引用元:BS朝日

ドジャース戦法が日本に伝わったのは、1961年のことでした。

この年、川上哲治監督が巨人の監督になりました。

川上は、ドジャース戦法に興味を持ち、アメリカのベロビーチでドジャースと合同でキャンプを行なうことを実現させました。

このキャンプでは、巨人の選手たちは、ドジャースの選手たちと一緒に練習し、ドジャース戦法のエッセンスを学びました。

しかし、ドジャース戦法は、英語で書かれていたので、巨人の選手たちは、その内容を理解するのに苦労しました。

そこで、牧野茂コーチが、ドジャース戦法を翻訳して、巨人のキャンプに持ち帰りました。

巨人の選手たちは、牧野の翻訳をもとに、ドジャース戦法を習得するために努力しました。

ドジャース戦法が巨人にもたらした効果

引用元:NEWSポストセブン

ドジャース戦法を取り入れた巨人は、V9という偉業を成し遂げました。

V9とは、1965年から1973年までの9年連続で日本一になったことを指します。

この間、巨人は、長嶋茂雄や王貞治などの個の力だけでなく、チーム力で勝ちました。

ドジャース戦法によって、巨人の投手力と守備力が向上しました。

例えば、1967年には、巨人の投手陣は、防御率2.19という驚異的な数字を記録しました。

また、巨人の守備陣は、二塁手の土井正三、遊撃手の黒江透修、三塁手の長嶋茂雄、一塁手の王貞治という黄金のダイヤモンドを形成しました。

この守備陣は、ドジャース戦法の要であるシフトやカバーを完璧にこなしました。

ドジャース戦法は、日本の野球界にも影響を与えました。

ドジャース戦法を学んだ巨人の選手たちは、その後、監督やコーチとして、他のチームにもドジャース戦法を伝えました。

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ドジャース戦法まとめ

ドジャース戦法とは、貧打のチームがチームプレーで勝つために考案された画期的な戦術でした。

この戦術は、巨人のV9時代の礎となりました。

巨人は、ドジャース戦法を日本に持ち帰り、投手力と守備力で勝負することを選択しました。

その結果、巨人は、9年連続で日本一になるという快挙を成し遂げました。

ドジャース戦法は、日本の野球界にも大きな影響を与えました。

ドジャース戦法を学んだ巨人の選手たちは、その後、他のチームにもドジャース戦法を伝え、日本の野球史に残る名勝負や名選手を生み出しました。

いかがでしたか?

ドジャース戦法とは、貧打のチームがチームプレーで勝つために考案された画期的な戦術であることがわかりました。

この記事が、あなたの野球の知識や楽しみに役立てば幸いです。

もし、この記事についての感想やコメントがありましたら、ぜひお聞かせください。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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